物語(STORY)を捨てる

ずいぶん前から、「スピリチュアル」的なものには興味が無くなっていました。
 
というのも、いわゆる「頭だけの知識」は、役に立たないどころか弊害さえあるからです。頭でわかったつもりになっているだけでは、現実はいつまでたっても変わらないまま(変わったつもりということも)で、さらに強化されることもあります。
 
現実に生かせてこその知識だと思いますので、そうでないなら「机上の空論」ですし、へたをすると「現実逃避」にもなりかねません。いや、現実逃避ならまだしも、知識の量をプライドの拠り所にしてしまうと、ますます「魂」からは遠ざかる結果となり、そうなると「スピリチュアルって何なのだろう?」ということにもなりますし。
 
昔からいう「腑に落ちる」つまり、肚にまで落とし込むことができれば、否が応でも現実も自分も進化します。肚に落とし込むとは、行動→経験→ニュートラルに受け取る、というサイクルになること。
 
価値判断、ストーリー、意味付けがない、ニュートラルな状態になって、肚(=魂)から生きましょう。
 
 
スピリチュアル系は特に「物語」が多いですね。
物語だとわかって楽しむだけなら問題ないのですが。
 
「物語」になった途端に、それは「リアル(=今ここ)」ではなくなってしまいます。
 
言葉を使う以上、それは仕方が無いことなのですが、「そこに書いてあることが絶対だ」「誰それの言ったことが絶対だ」(=こだわり・依存)のようになってしまうと、それは「宗教」になってしまいます。
 
「宗教」は「信じること」から始まるので、「肚で生きる」とは真逆と言っても良いかもしれません。
 
自分の中にあるものの中でどれが「物語」なのか、一度よく見てみることをおすすめします。
 
そういう「物語(ストーリー)」から脱却するのに役に立つ本を2冊あげておきます。
 


 

あなたのストーリーを棄てなさい。あなたの人生が始まる。

 
人生の苦しみのたった1つの原因は「ありのままの自分ではダメだ」という考えである。
そもそも、その「私」という考えそのものが苦しみの原因である。
小さな自分(=エゴ)というのは思考によって作られる様々な思い込みの集合体である。
 
こんな自分は良いけれどあんな自分ではだめだ、というような考えの集まりだ。つまり自分=エゴだと思い込んでいる限り、ありのままを認めるという状態は起こらない。
 
一瞥体験をし、自分という感覚が緩み始めてくると、真の探求の道、統合の道が始まる。それまでは自分でないものとして規定し、外の世界に投影していたものを自分自身に引き戻す作業。怒りや悲しみ、不安や恐れ、セクシャリティなど、無意識に否定していた様々なエネルギーを自分自身のものとして取り戻していく作業。
 
何が起こったのか、何が起きているのか、これから何が起ころうとしているのかを説明する考えや独り言、または他者への表現がストーリーである。あるストーリーは実話で、あるストーリーはフィクションだが、そのいずれも、私たちの小さなマインドの中で言葉が集積した、ただのストーリーに過ぎないのだ。
 
物事はこうでなくてはならない、あいつは悪い奴だ、誰からも愛されずに私はたった一人きりである、幼い時に見捨てられた、幼い時に虐待された、私は神の裁きを恐れている、というように、ストーリーが自分自身を定義する時や、ストーリーに自分自身のアイデンティティーや存在を見出す時に問題を生じ、私たちの自由は妨害される。
 
あなた自身の全てのストーリー、記憶、体験があなたのパーソナリティーを形作ってきたが、それでもそれらは単なるあなたのストーリーなのだ。かつて、そのストーリーはあなたにとって真実だったかもしれない、または真実のように思えたかもしれない。しかし、今は決して真実ではないのだ。
 
そのストーリーは、身体の中に留まっている感覚や感情と一致する束の間の考え、信念、心象、そして自己についての限られた観念という形態で、あなたの小さなマインドの中で展開する幻想の世界なのだ。
 
人や出来事、あるいは事実や想像が、あなたの意図や期待、物事はこうあるべきだというあなたのストーリーと相反すると、葛藤や痛みが生じるか、感情が反応するボタンが押される。その混乱は不安、怒り、恐れ、または体の中にあるほかの何かであっても、あなたの感情や気持ちをかき乱すものとして体験されるだろう。
 
しかしながら、動揺する感情や気持ちは、ストーリーがそれらに栄養与えて存続するさせるために存在するだけなのだ。そして、ストーリー、考え、信念は絶えず変化し、現れては消えていく。したがって、マインドの中のいずれのストーリーにもしがみつかないで、この瞬間において、ただシンプルに、非常に意識的でありながらもくつろいでいると、感情の状態は常に安らぎ、バランスが取れ、流れるようになる。あなたが真の内なる平和を見出すことに興味があるならば、これは理解しなくてはならない非常に重要な点である。
 
このことを認識して、ストーリー、肉体、マインド、パーソナリティーに自分自身のアイデンティティーをみ出さずに、一瞬一瞬の流れの中にあるがままでいることが、本当の自由ということなのである。すると、私たち自身や他の人たちの幸せに働きかける、新しい、意識的なストーリーを書こうとあなたは触発されるだろう。そこから生じた、文字通りまったく新しい、意識的でポジティブな、創造的なストーリーを人生、人間関係、仕事に吹き込むと、その結果、本当に必要で、本当に望むことを表すあなたの能力が大いに拡大してくる。そして生きること自体がもっと楽しくなってくるのだ。
 
そのために実践することは、ストーリーに巻き込まれたときに、ただとても注意深くあり、気付くということである。自分自身の真の性質に目覚めるために必要となるのは、現実を観、体験する方法の、知覚のシフトを経ることである。それは私、私自身、私のストーリー、という限られた観点で体験する人生から、全体性として人生を見るというシフトである。たった今、あなたを通して、あなた独特のユニークなパーソナリティーとして現れている、普遍的な意識それ自体の拡大した視点に目覚めるということなのだ。
 
葛藤している時や、動揺しているときは必ず立ち止まって、内面で起きていることに気づく。つぎにあなたが体験していることが感情、気持ち、出来事など何であれ、それにまつわるストーリーを全く持たずにその体験とともに存在する。ストーリーを待たずに、マインドの駆け引きなしに、そして、判断を下したり、抵抗したりせずに、あなたの恐怖、あなたの混乱、あなたの魔物と直面するのだ。これを身に付けることが実践への鍵となる。
 
実践するには、あなた自身が開かれたハートであること、そして感情的に無防備となることが必要とされる。
 
あらゆる形態の個人的な苦悩である、全てのネガティブな感情の裏には、あなたが自分自身に語っている、ある種のストーリーがある。あなたはそのストーリーを単なるひとつのストーリーとして見つめ、認識しなくてはならないのだ。ストーリーは事実に即している部分があるかもしれないし、ないかもしれないが、これが物事を見通す唯一の方法なのである。そしてストーリーはあなたが誰であり、あなたが何であるのかということではないのだ。
 
意識的か、無意識的であっても、あなたのマインドが固執しているストーリーは、あなたがこの瞬間に存在して、完全に姿を現すことを可能にさせる、あなたに本来備わっている能力を発揮する妨げとなる。ストーリーが何を生み出しているのか、何が抵抗、混乱、恐れ、苦しみをあなたの内面に持続させているかの理解の中に、自由がある。あなたの真の性質の全体性、意識で、まさに私そのものを見抜くのだ。あなたが自分自身だとみなしている人物、あなたの自己というアイデンティティの基礎を組み立てているストーリーの語り手、私というエゴをあなたは見抜く必要があるのだ。
 
目覚めとは何よりもまず、心理的、感情的な状態が自由であるということだ。それは人生に対して無抵抗という姿勢として現れる。絶えず変化する人生の状況や環境の流れに委ねているという、すべてを包み込む能力として現れるのだ。
 
私たちの小さなマインドの中で展開する世界は、私が、私だ、私のものという現実ではない世界である。それは現実ではない。生涯をかけて私たちが捏造し、信じ込んでいるフィクションだ。
 
障害と思えたあらゆることを含めて、今までマインドで見てきたすべてのことが幻想であると分かると、現実の世界でのあらゆる障壁や障害が突然扱いやすくなってくる。そうなると、マインドはもう邪魔者ではなくなり、それどころか人生のあらゆる問題に対処することを手助けしてくれる力強い味方となる。人生の目的が明確になり、最終的には愛が行動の全てを導くようになるのだ。
 
内なる自由を獲得するために最も重要なことは、どのような考え、概念、信念、ストーリーからも束縛を受けなくなり、まさにこの瞬間、人生をありのままに観、体験することを身に付けることである。
 
ところが、ほとんどの人たちは、自分自身のストーリーに深くのめり込んで一体化しているために、自分自身がそのストーリーであると強く思い込んでいるため、人生で物事がうまくいってる時のみ非常に満足する傾向にある。大抵の場合、そのような人たちは自由の深いレベルまで目覚めることにあまり興味を持っていない。
 
自分自身は誰であるのかとあなたが考えるあなたのストーリーが個人を証明するアイデンティティになると、自己不信、ストレス、心配、恐れが引き起こる。これが内なる葛藤と苦しみを作り出すのだ。自分自身のエゴ、「私」という概念、そしてすべてのストーリーと一体化することが苦しみを強める。
 
目覚めるとあなたは明瞭になってくるために、葛藤と苦しみから自由になる。純粋な意識に基づいていることと関連する感情の傾向は、くつろいだ和らぎ、調和、実在、感謝、寛大さ、歓迎、開かれたハートである。そして、身体にみなぎるエネルギーを感じるだろう。思考はあるかもしれないし、ないかもしれないが、あなたは思考と一体化していない。
私たちが、自分の身体、マインド、感覚と強く一体化しているために、ただ単に苦しみが起こるという事を目覚めは正確に明らかにする。
 
自分自身だと見なしてきたこの「私」とは、わたしたちが賛成してきたただの概念だと理解するとき、何年も繰り返して自分自身に語ってきたストーリー、ユニークで特別な切り離された「誰か」についての考えはすべて消滅し、苦しみはいつの間にか無くなる。
 
 
 
 

あなたのストーリーを棄てなさい。あなたの人生が始まる。
 ジム・ドリーヴァー (著), 今西礼子 (翻訳) より抜粋

 

5つの約束

 
1,嘘偽りのない言葉を使うこと
2,どんなことも個人的に受け取らない
3,思い込み(憶測)をしない
4,常にベストを尽くす
5,疑い深くありなさい、しかし耳を傾けることを学びなさい
 
 
自信とは100パーセント自分の信念を支持することだ、と多くの人は思い込んでいます。自分が知っているあるいは信じていると思っていることばかりを信頼して、世の中で起こっているそれ以外のことに耳を傾けることができないでいるなら、それは自分の観念に執着していてそのせいで物事が見えなくなっているということです。これは信頼ではありません、頑さです。
 
何の吟味もせず疑問も持たずに物語を信じ込んでいると、最終的に幻滅を味わうことになります。物語を語っているうちに自分ででっち上げたアイデンティティに執着するようになるからです。ひとつの物語は人生におけるある一瞬、1つの経験、ひとつの学びを描写することはできます。でもいかに真実を鮮明に映し出していようが、それは依然として私たちが信じるか信じないかを選択できるひとつの物語なのです。
 
善と悪の対立、その争いは人間の心の中だけに存在する。宇宙や植物や動物にはない。虫や木や自然にもない。それは人間の心の中にだけ存在する。
私たちの心の中の対立は、真理と真理ではないものとの、真理と虚偽の間の対立なのだ。
善と悪はその対立の結果としてもたらされるものに過ぎない。真理を信じることから善や愛、幸福が生まれる。真理に基づいて生きれば気持ちよく感じ、人生は素晴らしいものになる。虚偽を信じて、それを防衛しようとすることが、悪を作り出す。
虚偽を信じることがあらゆる不正、暴力、虐待、苦しみの原因なのだ。
 
私は決して私でないものになることはできない。私は私であることができるだけで、それが全てである。そして今私が私であれば、何の努力もいらなくなる。
 
私は不調を感じる権利を持っている。しかしそのことは私が愛する人や子供たち、友人、私のために働いてくれている人たちを傷つけるということを意味しない。もし私たちが利己的で不機嫌なら、その時私たちは、自分の周りの人たちが幸福になる権利を持っていないと信じていることになる。
そこで私たちは言う。「私の気分がこんなに悪いのに、なんでお前は笑っているんだ?」これは利己性以外の何物でもない。そして私たちは、自分に対して利己的だから他者に対しても利己的になるのである。自分で感じるものは何でも、私たちは他者に投影する。自分自身を扱うそのやり方が、そのまま他者の扱いかたなのである。
 
 

トルテック 五つの約束 より抜粋

 

 

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