思考から脱し感覚へ、感覚から超感覚へ、そしてより本来の自分へと魂に目覚め、覚醒し、多次元感覚にシフトし続ける!

魂の自分で生きる

 
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空間認識実験

SPATIOTEMPORAL RECOGNITION EXPERIMENT

この空間認識実験は、2016年に行ったときの記録です。今現在とは認識が変わっていますが記録のために残しおくことにしました。

 
 
空間認識実験 その1
最近思ってること。
良い悪い、好き嫌い、正しい間違っている、などの二元意識って、実は二次元なのかなと。
我々は三次元(時間を入れて四次元)に生きていると思っているけれど、意識は二次元のままなのかも。
 

空間認識実験 その2
視覚情報は、2次元ですよね。両目で立体視しているといいますが、バーチャルな3D空間の方がよほど立体感があるように見えます。
普通、人が景色(遠景など)を見る時、そこに無意識に距離の概念(というか時間の概念)を入れていることに気づきました。ここからあそこまで何分ぐらい、とか。
つまり、時間軸を(見えないのに)X軸Y軸(Z軸?)方向に設定しているというか、勝手に想定しているというか。
なので、時間軸を「私の中に畳み込んだらどうなるのだろう?」という思考実験をしています。時間軸を自分の中心に垂直に持ってくるようなイメージでやっていますが、だんだん見えてくる世界が変わってきたように感じます。
「私」という存在の感覚が変わってきたというか、「私」という存在がより明確になってきたというか、そんな感じ。うまく言えないけれど。
面白いのでまた報告します。
 
 

空間認識実験 その3
時間軸を「私の中に畳み込んだらどうなるのだろう?」という思考実験の続き。
視覚空間の情報から時間軸を抜くと、面白いことに気づきます。空間がより平面的に認識される感じ。
ということは、3D映像みたいに感じていたというのは、時間軸の影響があったということで、時間的な尺度を想像して3D映像をイマジネーションしていたということですよね、きっと。
そこで浮かぶ疑問は、これどこから来たのだろう?でした。
学習した?何から?と考えていって出てきたのが、「他の人の身体を使って(基準として)距離を概算している」でした。
なので、あまりに人が小さく見えてしまう(遠距離)と計算できなくなるということなのですが、ということは、他の人の身体を物体として見ているということで、ならば自分の
視野に入る自分の肉体も物体として認識している?です。
自分を3次元世界(もしかしたら2次元)に閉じ込めているのは、この認識があるからなのかも? と思いました。
実はここに「他者の視点(というか視線)」という問題も入っているのですが、それはまた今度!
 
 
 
 
 
空間認識実験 その4
「私」が3次元空間というか、物質空間にあるように感じている原因のもう一つが、他者の視線です。
例えば「児玉さん」とか「ますみん」とか、誰かから呼ばれたとする。声のした方向を見ると、○○さんが「私がいる(と思われる)方向」を見ている。その瞬間、「私」は、その3次元空間の中で位置を持つことになる。
「私」も、肉体の眼球を通して視覚情報を写しているので、呼びかけた人(の肉体)を3次元空間の中に位置させることになる(と同時に距離や時間軸も決まるのかも?)。
ぼうっとしていて、自分がどこにいるのかわからなくなったことがある人は、この感覚がわかるかも(^^/
そして更に続く・・・
追記:書いてて、これって、量子の波動性と粒子性みたいだなと思ってたりして
 
 

空間認識実験 その5
「私」が物理空間(もっとはっきり言えば肉体)の中にいないのだとしたら、どこにいるのだろう?
それをずっと考えていたのだが、あるヒントが現れた。
昼食を食べて、目の前にある窓から外を眺めつつ、二次元に落とし込まれた目の前に広がる景色に見入っていたとき、それは現れた。
何か空中に止まった物体がある、そのように認識されたモノ、すわUFOか?と目をこらしてみると、なんとそれは窓ガラスに付いたゴミだった・・・。
なーんだとがっかりした瞬間、天啓のように訪れたその考え。
「もしかして空間は、この(窓ガラスを通して見た景色)ようにレイヤー構造を持っているのかも?」
レイヤーが次元なのだとしたら、多重に重なったものなのかも知れないし、もしかしたら、その次元のどこかに「私」がいるのかも。
普段は意識化されていないレイヤー構造も、ほんの一点の曇り(比喩ね)さえあれば意識化できるかも。
なんだか途端にワクワクしてきた(^^/
 
 

空間認識実験 その6
空間レイヤーの中に「私」がいる(次元がある)としたら、それは、他者も同じく空間レイヤーの中に存在しているということになる。
とすると、それは同一レイヤーなのだろうか?
どうも違うような気がする。
なぜなら認識が違うはずだから。
ということは、その人ごとにレイヤーが存在し、それが多重構造になっているのかもしれない(人だけではなく、植物・動物・無機物も持っているかも?)。
そしてそれが空間を創り出しているとしたら。
また、その場合、時間とは何か?
その4で書いたように、ぼうっとしている時など、「私」は時間の中にいない(肉体の中にもいない)。
アインシュタインは、三次元空間+時間で四次元だと言ったが、本当にそうなのだろうか?
今まではそう(アインシュタインが言うから本当だ、と)思い込んできたが、どうもここにトラップがあるように思う。
このトラップが「私」を三次元時空間に閉じ込めている原因だとしたら。
 
 
空間認識実験 その7
時間というのは感覚的にもリニアなものとしてとらえられているが、この感覚自体が問題なのかも知れない。
僕自身は、かなりリニアな時間感覚を持っていると思っていた。
目を覚ましている限り、時計を見なくても、誤差10分くらいで今何時何分かを把握している。
というか「していた」
というのも、この空間認識実験を始めてから、どうもその感覚がおかしくなってきていることに気づいたからだ。
つまりこれは何か一つ枠が外れたということなのだろうか。
それにしても、社会的な生活を送るのには不便なので、最近腕時計をするようになったのだが。
しかし、面白いもので、ただ単に視覚情報から時間軸を抜くだけの思考実験で、こんな事が起こるとは思ってもみなかった。
 
 

空間認識実験 その8
時間の概念を外すことによって、やっと目の前の視覚情報に専念できるのだと思ったが、ここでまた面白いことに気づいた。
視覚世界が前より平面に見えてくるのだ。
両目でできる立体視は、だいたい腕の届く範囲くらい、せいぜい身長くらいまでで、それを超えると立体には見えていない。立体だという概念があるので立体に見えるような気がする、という程度。
これはいわゆる「遠近法」の影響なのかも知れない。
調べてみると、もっとも初期の遠近法は、紀元前5世紀頃の古代ギリシャで舞台美術に使われたものだったという。だが、遠近法の理論自体が発見されたのは1400年頃だそうで、一般化されたのは1600年あたりと結構新しい。
それらの概念を外して平面となりつつある世界を見ていると、今度はいろいろな記憶がよみがえってきた。過去の様々な記憶。もう忘れ去っていたような過去の記憶達。
それはもう怒濤のように蘇ってきた、というか、あまり感情は感じないので、光景としてなのかも知れない。
目の前の空間とは過去なのかも知れない、とその時思った。
 
 
 
 

空間認識実験 その9
「目の前の空間とは過去なのかも知れない」
この認識は衝撃的だった。
精神世界系的な知識で言えば、過去とは背中側にあるということになっている。自分もそう思ってきたし、そうやって過ごしてきた。
その概念自体を外すのは、心理的に抵抗感がある。正しいとか間違っているの葛藤も。「過去」というと抵抗と葛藤が起きるので、「記憶」と言ってみる。記憶ならばあり得るかもという感じがする。
記憶というなら、空間の一点に全てが集約されているホログラム構造というのも「あ、そうなんだ」と肚に落ちる。
が、「私の記憶」となると、それはやはり「私の過去」であり、葛藤が。
となると、問題は、葛藤の原因は、「私」という認識というか、概念の方にあるのかも知れない。
今日も面白いことに気づいた。
視覚情報を入れずに自転車で走ると、私という中心が凄くはっきりと分かる。それは、あたかも、自分は不動のままで周りが後ろに流れ去っていくかのような感覚が生まれてくる。
これで分かることは、やはり視覚情報の認識が、自分(とか他者)という認識に大きな影響を与えているということだ。
安全なところで試してね(^^/
 
 
空間認識実験 その10
前回の観覚変換実験(目をつむって自転車で走るやつね)に慣れてくると、歩いている時も「不動の自分体験」ができるようになってくる。
これによって気づいたのが、自分が動いているという認識そのものが、ある種のトラップになっているのではないか?ということ。「私」が、肉体という入れ物の中に入って、この3次元世界を動き回っているという認識。
こう書くと、自分の思考さえもが猛然と反論してくるほど当たり前すぎる概念だからこそ、トラップが潜んでいる可能性が高いと感じる。
さらに言えば、「私」はこの3次元世界の空間座標上には存在していないのかも知れない。自分の写真を見て「私はこの写真の中に存在している」とは思わないのと同じように(そこにも存在している、とは言えるが)。これは、「その5」で書いた空間レイヤー構造と関係があると思われる。
そう考えると「引き寄せの法則」も、物事を引き寄せるのであるから、自分は不動で事象がこちらに来るということなのかも知れないなとも思ったり。
天動説から地動説へ、そしてまた天動説へと還るみたいな、そんなコペルニクス的転換が起こりつつあるように感じる。
注)「私」は3次元時空の中を動いてはいない(=不動の視座がある)ということだけで、「世界は私を中心に回っている!」などと言っているわけではないことにご留意頂ければ幸いである。
 
 
 

空間認識実験 その11
その3で、「他の人の身体を使って(基準として)距離を概算している」というようなことを書いたが、どうもそれだけでは無いらしいということに気づいた。
目の前に拡が(っていると思ってい)る視覚空間において、距離というか幅の感覚は、自分だけの感覚では無いように感じられてきているからだ。
観覚変換実験で不動の自分(という位置)を感得した状態で、改めて視覚空間を見ていると、どうも自分のものではない思考?(というか感覚なのかも知れない)のようなものがあるように感じる。
もともとエンパス体質なので、そういう感覚には敏感なのだが、どうもそれは「(誰かの)感情」ではない、その他の感覚的なもの・・・、と書いていて、もしかしてと思ったのが、「他者の認識している空間」。
もしそうだとしたら、自己の認識している空間以外に、他者が認識している空間もレイヤー構造の中に入っていて、それも同時に認識しているということになる。
つまり、私の目の前の空間というものは、私が認識している空間レイヤー+他者が認識している空間レイヤーから出来上がっているのではないだろうか?
とすると、「他者が私を見る時、私は肉体の中にいるように感じる(その4)」というのは、自分だけの問題ではなく、他者の空間認識を共有していることからも生じているということなのかも知れない。
他者が私を見る時、肉体(物質)としてしか認識できていないわけだし、それは私が他者を見る時も同じだろう。
「人の身になって考える」とよく言うが、空間認識レイヤーとして考えると、それこそが罠なのだろうと思う。 今のところそう言い切るには凄く葛藤がある部分ではあるが。
 
 
 
 
 
空間認識実験 その12
「人の身になって考える」を空間認識の観点から見た時に、いくつかのことに気づいた。
まず、3次元的な肉体を持ったまま同一空間に存在することはできないので、同一の方向を向いて、同じものを見ているようでも、自分と他者の空間認識にはもともとずれが生じているということ。
これは、3次元空間では同じ空間認識を得ることは不可能ということになる。
そして、この位置する視点のずれが、空間認識を立体に見せている要因として考えられるのではないか、ということ。自分から見た平面の世界に、他者から見た角度のずれたレイヤーが重なることによって、赤と青の眼鏡をかけて見る立体映像のようなイメージ。
距離と時間の概念もこのずれから生じているのかも知れない。
つまり、3次元(肉体的な位置のある次元)においては、同一の空間認識は想像的産物でしかありえないということがわかる。想像的ということは、「私」が持っているの概念や限界などが当然反映されてしまうということで、「人の身になって考える」は「私’」を生み出すことになってしまうことに他ならない。
この「私’」は、私をさらに3次元的に落とし込んでしまうように自分の観念を補強するものであると考えられる。
これを回避するには、観覚変換実験で得られる「不動の自分という位置」感覚を獲得することがまず第一歩のように思う。
では、その「不動の自分という位置」というのはどこに在るのか?
感覚的に、これは「私」と肉体が同一視されている3次元時空内には存在していないことがわかる。
そしてもう一つ。
他者がいない空間においても、空間認識が立体になっている(普通の感覚では)のだが、他者が創る空間レイヤー以外に「自分が肉体の外から空間を見ている視点」というレイヤーも存在しているのではないかということが推察される。
つまり、「私’」の存在である。
 
 
 
 
 
 
 
空間認識実験 その13
前回で「私’」の存在に気づいたので、空間認識において「私’」というレイヤーが存在していること事により何が起こっているのかを考察してみた。
1,視覚認識において平面である空間を3次元立体空間として知覚させている
2,肉体を持った「私」が3次元空間に存在しているという認識を生む元
3,他者’として機能している
ここまで書いてきて、これは「見ている自分」と「見られている自分」の関係そのものだと気づいた。
つまり、「私」は、この二つの観点(視点)を同時に持っているということになる。そして、「私’」という「想像」の存在こそが「私を三次元時空に落とし込み、肉体として認識させている」のだということ。
(ずいぶん前に知ったので記憶が朧なのだが)ジャック・ラカンがシェーマLで表していた「小文字の他者a'=小文字の自我a」というのはこのことではなかったのか?!
そうだとすると、この「私’」が存在する限り、他者との真の理解は無く、「私」は肉体の中に押し入れられ、一人孤独に苦しむことになるのだろう。
このことがわかったのは、観覚変換実験で得られる「不動の自分という位置」が感覚できたからであり、これによって3次元時空から一時的にせよ解放されたからではないか、ということ。
たしかに、「不動の自分という位置」からは「私’」は感覚されていないし、時間の流れも無いように感じる。
とすれば、「不動の自分という位置」は3次元時空には存在していない位置なのではないだろうか? それは2次元や1次元でないことだけは確かであるので、今まで知覚されていなかった空間レイヤーとしての高次元なのかもしれない。あるいは4次元方向なのか。ここら辺は正直よく分からない。
大体、4次元や5次元がどういうものかすらよく分かっていないわけだし、確定的なことは言えない。「不動の身体」が魂の座のある次元というのはどこかで聞いたことがあるが、そもそも魂自体の次元がわからないので何とも言えないが、3次元時空(座標軸)上には感覚されていないことだけは言える。
この実験はただの思いつきだったのだが、なかなか面白いことになってきた。
 
 
 

空間認識実験 その14
科学という客観では、意識がどこにあるのかわかっていないし、魂も同じだという。
「その8」で書いたように、目の前の空間(と思っているもの)に過去(記憶)があるのならば、そこが意識とか魂のある領域だと言っても良いのかも知れない。
だが、この肉体方向に向かったところにも「私」を感じているのは何なのか?
こう考えてしまうのは、皮膚を境界線として内と外を分けて考えてしまう、従来からの3次元時空認識がまだ根強く残っているからなのだろうか。
とすると、「我思う故に我あり」デカルトのこの言葉に違和感を感じてくる。なぜなら、目の前の空間=記憶(意識・魂)であるなら、そちら側にも「私」がいるということになるのだが、そちら側の(なんか変な言い方だが)「私」には思考している様子が無い、というか、「私」という概念も無いと感じられるからだ。
「私」という概念が無い・・・つまりこれは無意識(的集合意識)なのだろうか?それとも純粋な記憶だけなのか、それとも、真我とでもいうべきものなのか。
などと考えているこちら側の「私」は間違いなく「自我」だといえるだろう。
つまり、今までのことを総合すると、自我とは「他者(a)から見られている視線」と「想像的な他者(a')から見られている視線」の合成されたレイヤーなのだろうと思う。
「見られている」つまり、受動的なものであり、自我は能動的なものでは無いということになる。では、能動的なものとは何なのか? この例から導き出せるのは「見ている」でしかあり得ない。
皮膚の内側ではなく、肉体の器官では無く「見ている」ものとはなにか?
知覚。
知覚には価値判断もなにもない。価値判断というのは受動的なものだから、というか、判断というもの自体が受動だ。

今これを書いていて気づいたことがある。何かしっくりこないものをずっと感じていたのだが、それが今わかった。
さっき書いた「3次元時空」を「次元」というから変なのだと。
どういうことかというと、3次元時空とは、x軸、y軸、z軸の三つの座標軸を持った空間+時間軸のことだが、これを3次元ではなく「3軸空間」とか時間を入れた「4軸時空間」(物理学では時間はマイナス軸だったと思うが(ということは時間とは過去なのか?))というように表した方がしっくりくる感じがしているということ。
ではないと、元々スピ系の私(自我)的にはアセンションの次元上昇とは、この3軸にもう一個か二個の軸を足したもののイメージにしかならないし、それを次元上昇(アセンション)というのは何か違和感があるし、同じ伝で次元下降(ディセンション)というと、二次元や一次元になるということになってしまう。それって、何かとても変。今まで気づかなかったけど。
なので、この3次元時空(ユークリッド空間)のことは、3軸空間とか4軸時空という様な表記の方がいいのかもしれない。

では、次元とは何なのか? なのだが、今の私の感覚では、「空間認識のレイヤー構造」なのではないのだろうかというような気がし始めている。
だとしたら、「不動の自分の位置」というのがとても重要になってくるような気がする。
なぜならば、「不動の自分の位置」はこの4軸時空上に(物理的に)存在するものでは無い様に思うし、それとともに、何かとても懐かしい感じもする。
重ねて言えば、ここには自我的な「私」という感覚も存在していないのだが、知覚はできる。
この空間(と思っているもの)自体が意識だとしたら。
 
 
 
空間認識実験 その15
その14の補足というか追加。
アセンションは次元上昇で波動が細かくなることというが、ということはつまり、回転数が上がるということなのではないか?
これはオイラーの公式を見ていて思いついたこと。
もう一個。肉体の私方面にある「自我」を我々は「生」と言っているのだと思うが、だとしたら、目の前の空間(と思っているもの)にある「私(とあえて言っておこう)」は「死」に当たるのかもしれない?
だとすると、肉体及び自我が滅んでも、記憶は残るはずだ。
 

「不動の自分という位置」からはリニアに流れる時間という観念が無い。

「私」という固体的意識も希薄化(無くなってはいない)している。

複素平面ならぬ、複素空間とでも言った方が良いのかも?
 
 
 
 

プロフィール

PROFILE

児玉真澄 Masumi Kodama

 
ブルーレイスターシードのエンパス
 
幼少時から「この世界は何かおかしい。全部が逆になっている」と感じ、中学生のころからいろいろな宗教を巡るが、どこも違和感しかなく、スピリチュアルの道に入る。スピリチュアル歴50年。
 
高校時代から、オーラクリーニング、チャクラバランシングなど、様々なヒーリングやエネルギーワーク・リーディングメソッドを学び、波動調整の道に進み、独自の波動調整「波動チューン」を創る。
 
波動調整セッションをするうちに、対面で90%以上、遠隔でも85%以上というクライアントさんと術者の感覚の異常な一致率に氣付き、自身がエンパス能力者であると認識する。
 
エンパス能力の感覚共有を使ったセッションができそうだと直感し、ヒーリング・波動調整・リーディング・感覚共有・感覚消去を統合した意識拡張メソッド「シンクロ・レゾナンス」を創る。個人セッション・グループセッションで二千回以上を経験。
 
現在さらに進化した、多次元から働きかけを行う「TRANSFORMATION GATE - 変容の扉」セッションを行っている。

また、小学生のころから小説を書き始め、同人誌に投稿するようになり、WEB小説を経て徳間書店から「クラミネ」を上梓。次回作はうちからとKADOKAWAさんからオファーが来たが、注文がバリバリのホラーだったため書きたくなくて放置。もったいなかったと今では思っている(笑